感情を抑制する一歩
Writing by syn on 2009年10月29日
感情は暴れ馬のごとし、たずなを引いて自ら調教する必要もありそうだ。
煩悩的な欲望と感情とはまったく同一のものであって、欲望の限り好き勝手に振舞うことがみっともないと思われるように、感情が思うままにそれが自分の考え(=理性)であるかのように錯覚することは、とてもみっともないことでもある。
感情が自分に覆いかぶさってくる、喜びであれ、憂鬱であれ、それはある種自分が自ら望んだ欲求に等しい。感情が発生する要因は確かに外部からの影響によって引き起こされる場合がほとんどだが、それにどのように反応したかは、自分が自ら望んでいることであるということに気づきにくい。
だから、感情は暴れ馬のごとし自分の意思(=理性)に即さずに行動されてしまうので、その抑制方法を考えたり気を使ったりすればいい。
それはそのみっともない自分の内面の様態を、少し律するということである。
しかし、そのことが、いやそのことだけが、自分を幸福にする唯一の方法なのかもしれない。
ではそれを意識する第一歩は何か、
感情にもいろいろと種類があるが、暴れ馬をおとなしくさせるということで考えると、「暴れる範囲を狭くする」=「たずなを短くもって強くひっぱる」ということになり、つまりは、感情の抑揚を控えるということである。
感情は心の中で大きく膨らむ。
喜びであれ、憂鬱であれ、大きくなってしまう。
しかしそれは、暴れ馬なので、実は幻覚でもある。
現実的な実態とのバランスを欠いた幻覚である可能性が高い。
その出来事が自分に、もうなんともいえない喜びを運んでくれた。
なので、胸いっぱいにはちきれんばかりに喜び、そしてそれを表現した。
一見、素敵な光景だけれども、実際それは、穏やかに喜びをかみしめる、心のなかで感謝の一言を念ずるようなおしとやかな表現にすべきだ。
これは、なんだか「しらけた」感じがする。
でもそれは「しらけていない」。理性が台頭し、たずなを引いた感覚である。
仕事がうまく展開せずに、行き詰ってしまった。
なので、胸に重い重圧と憂鬱が覆いかぶさってくる。そしてそのように目はうつろになり、不安で一杯になる。よくある光景かもしれないけど、実際それは不安になる前に、将来的な不成功を祈願しているかのようである。近未来の成功やなんらかの助けを得られる可能性を差し置いて、勝手に落ち込む暴れ馬は、たずなを引いて、少し落ちたところで「なんとかなるだろう」のなんとかの可能性を詮索する理性を感じればいい。
ここでは、「しらけた」感じというより「冷静」という言葉がよくあうだろう。
実際それは「冷静」=「理性」である。
このように感情は理性によって、コントロールされる。
自分の考えは感情が大半を占めていないだろうか?
情緒的、感傷的に物事の段取りや行動を決めていないだろうか?
多少「しらけた」「冷静」な自分の観点。そこに「理性」という幸福のキーワードであるたずなを引く自分の能力の源があることをもう一度思い出そう。
陰陽の法則がある。
大きな成功や大きな喜びには、大きな失敗や大きな幻滅がついて回る。
穏やかな状態は、大成功でもないけれど、不幸もない。
それが「しらけた」人生なのか、「幸福」な人生なのかを感情で想うか、理性で想うかで、自分の中では相反する意見となるだろう。どちらを選択するかは、自分の考え方や性格ではなく、どちらで結論を出すかの違いであった。

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