堂々巡りの自分探しだけど
Writing by syn on 2008年12月26日
自分探しは得てして堂々巡りになってしまうよう。
気分の躁鬱と連動しているのだろうか。一見そういう風に感じるかもしれないけれど、それは本質ではないと思われる。
おなかがすいてご飯を食べて満足しても、夜にはまたおなかがすくのだ。
しかし自分探しの堂々巡りとはこれとも少し違う。
それは波かスパイラルか。
空腹が毎日、波のようにやってくる習慣と違い、自分探しの堂々巡りは、なんらかにシンクロして巡ってくる。日常の問題や転機、壁であったり、悩みであったり、はたまた沸いてしまうアイディアやエゴであったり
。
しかしそれは波ではなかった。
自分探しとは、人間特有の成長エネルギーのようだ。それは単純に波ではなく、スパイラル上に収縮を繰り返すかのようだ。
だから単なる堂々巡りではなく、積み重ねが確実にある。
カレーを毎晩煮込み続け、どんどんコクが出てくるようなものか。
それがわかれば、人は死ぬまで自分探しをするかもしれない。
この成長エネルギー物質の分泌が多い人は、その回数も多いかもしれない。
ただ自分探しはゴールを見つけるゲームではなかった。
新しい発見の連続といった表現に近いかもしれない。
うつろう世の中にシンクロしたり、人間的な成長にシンクロしたり、精神の成熟にシンクロしたりしながらスパイラルを繰り返し、人間味を煮込み続けている。
時々問題や壁にぶち当たったときに、自分探しのような気分に気づくことがきっかけになるかもしれないが、実際はそうではなく、毎日静かに、時には激しくスパイラルしている。
スパイラルの中心が渦巻きの中心に向かって収縮していくときは、パワーを蓄えるときかもしれない。
中心に近づいたとき、なんらかの発見とともに自分が知っている以上のパワーを発揮できたりする。
その次のスパイラルからは、外側に向かって解放のスパイラルとしてめぐる。
大きく広がったときには少し迷いが出る。
しかしそれは転機だった。そこで新しい何かを感じてしまうから、また収縮のスパイラルとともに、新しい発見を求める。求めるというか、見え隠れするそのモノが何かを確かめようとするという感覚に近いかもしれない。
そう、まったく知らないものを求めるのではなく、すでに知っているものを思い出そうとする行為がこの自分探しの本質に近い。
だから、今日もスパイラルしている。
休みなく成長している。
よかった。

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Category: 自分の探し方
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